鉄道の起源と発展の過程
人や物を運ぶのに車を利用するようになったのはいつごろでしょうか。
現在分かっているものでもっとも古い車輪つきの乗り物は、紀元前3500年ごろのメソポタミアの絵文字にあるものです。車輪は、ろくろや糸つむぎの錘(紡錘)と同じように、回転運動を利用する道具ですが、正しい円を描くことができなければつくることができません。円を描くためには、糸の一端を固定して他の端を回転させればよいのですが、最初は、ふたまたになった棒や鳥の胸の鎖骨のようなものを使っていたといわれます。これは、現在わたしたちがコンパスを使う方法と同じです。このようにして、作られた2枚の車輪を車軸の両端に取りつけ、軸受けをつけた台をその上にのせて車が発明されました。これで、地上に台を置いて引くよりはるかに小さい力で重いものを運ぶことができるようになりました。
しかし、車輪は、地面にめりこむことがしばしばあります。雨が降ったりしたときや、湿った土地では、車が土にめりこんで動かすのに大きな力が必要になります。そのために、ローマでは道路に石を敷きつめて、事が地面にめりこまないようにしました。ずっと後のことですが、日本の東海道では大津と京都の間の急な坂道で、車輪と車輪との幅に合わせて敷石に溝をつけ、溝に車輪をはめこんで動かすようにしていました。これを「車石」と呼んでいました。ヨーロッパでは道路に木製のレールを敷き、車をレールにのせる方法をとっていました。
木製のレールが考え出されたのは16世紀の初めとされています。ドイツやイギリスの鉱山で、鉱石を運び出すのに使ったのが最初といわれます。17世紀のイギリスの鉱山では、広さ約5センチ、厚さ約4センチのカシの角材を枕木に固定し、レールとして使用していました。
しかし木材は折れやすいので、車が来る面に細長い鉄板をはりつけるという方法が生まれました。それが、やがて鉄製のレールに変わっていきます。1760年代から70年代にかけて、U字形やL字形のレールがイギリスの鉱山で使われるようになりました。これは、車石の場合と同じように、車輪をレールにはめこむ形式のものです。ところがこれでは、ある線路からほかの線路に分かれていくときに困ります。そこで、Ⅰ字形や工字形のレールをつくり、車輪にフランジという出っぱりをつけて、両側の車輪のフランジが、2本のレールの内側に入るようにしました。これで脱線を防ぐことができるし、他の線路に分かれていくこともできるようになりました。レールの断面が上下とも同じ形のⅠ形で、一方がすり減ったときひっくり返して使う「双頭レール」が使われたこともありました。日本の鉄道が最初に用いたのもこのレールでした。しかし、これは枕木に固定する方法が複雑ということもあって、現在のような工字形が使われるようになりました。材質は鉄製から鋼製へ、強くて重いレールに改良されていきました。
レールの上を走る車は、最初16世紀ごろに鉱山で使われたとき、人が後ろから押す方式のものがあったようですが、ほとんど同時に馬に引かせるという方式がとられていたようです。ヨーロッパでは、街道を走る馬車が15世紀ごろから使われており、動力として馬を利用する方式が、鉱山で応用されたのかもしれません。日本では、1867年ごろに北海道の茅沼炭坑で、木製レールに車を載せ、これを牛が引いて運ぶという方式のものがありました。当時の日本の場合は、ヨーロッパに比べて、レールを使う軌道の発達はかなり遅れていました。この間、ヨーロッパでは、鉱山の中だけでなく、たとえば鉱山から港まで鉱石を積み出す線路をつくり、馬車が、この線路の上を、鉱石を積んだ車を引いて走りはじめました。そのうちに、鉱石を運ぶだけでなく、他の物資やそれから人を乗せて運ぶことがはじまりました。イギリス各地をはじめ大きな都市などで、馬車鉄道が市内の交通機関として登場したのは、1803年ごろのことでした。
蒸気機関が、実際に使われるようになったのは、18世紀のなかば、ジェームズ・ワットが発明した形式のものなどからでした。水に熱を加え、これが蒸気になったときの空気の圧力を利用するという原理は、すでに17世紀ごろから分かっていたのですが、これを動力に応用することが難しく、実用化に長い年月がかかりました。この蒸気機関は、水を汲み上げたり、堀り出した石炭を地上に運び上げたりするための目的で使われましたが、蒸気機関を使って車を動かすことはできないかと考える人が何人もありました。
1770年には、フランスの技師ニコラス・ジョセフ・キュニョーが、蒸気機関を取りつけた三輪車を発明しました。こののち、1802年までに、イギリスのリチャード・トレビシックが高圧蒸気機関を使ってレールの上を走る機関車の製作に成功しました。蒸気機関車は、まず、このトレビシックの発明から実用化が始まって、1814年にはジョージ・スティーブンソンが自分でつくった機関車の試運転に成功しました。この機関車で、それまで動力を伝える装置に歯車を使っていたのをピストンに替えるなどのちの蒸気機関車の構造の原型ができ上がりました。1825年、世界最初の蒸気機関鉄道として開業したストックトン - デーリントン間鉄道でも、1830年開業のリバプール - マンチェスター間鉄道でも、スティーブンソンの機関車が採用されて、このころから蒸気機関車は実用化に成功したのです。

鉄道は、最初に馬車を使っていたころから、炭坑から石炭を運び出すためにつくられたことが多かったのですが、石炭を燃料として使う工場が増えてくると、炭坑と工場を結ぶ線路がつくられるようになりました。イギリスでは、運河を堀って、炭坑から鉄道で運び出した石炭を、運河の船着き場で船に積みかえて運んだのが、しだいに、直接鉄道で工場まで運ぶようになったのです。蒸気機関が工場で使われるようになり、産業革命が進むと、ものを運ぶときもこうして鉄道に頼ることが多くなってきました。そのうちに、植民地から輸入した材料を港から工場に運んだり、製品を工場から市場に運ぶために鉄道が使われるようになりました。1830年に開通したリバプール・マンチェスター鉄道が、その最初の例となりました。
こうして鉄道が、たくさんの人や物資を、早く運ぶことができるということが分かると、道路や運河にかわって国内の幹線交通機関となっていきました。イギリスばかりでなく、ヨーロッパ各地や、アメリカ合衆国、さらに、そのころ埴民地だったアジア、アフリカの各地に鉄道線路が綱の目のようにつくられていきました。1880年代には、全世界で80万キロメートルの鉄道線路が敷かれ、鉄道は陸上交通機関の中心となりました。鉄道は、産業革命によってつくり出され、産業革命をおし進める交通機関となったのです。

日本の鉄道はイギリスの技術指導により、蒸気機関車、客車、貨車を輸入し、1872(明治5)年に開業した。当時は輸送量も少なく、経費の面からレール間の幅は狭軌(1,067mm)とされ、車両も小形のものが使用された。火山帯上の狭い土地で地形も急峻であり、狭い海岸線寄りの平地に多数の人々が住み、国力も乏しいという、自然的、経済・社会的条件のもとで曲線や勾配が多く、負担荷重も少ない線路が敷かれた。先進諸国をはじめ世界の多数の国で採用している標準軌(1,435mm)より狭い軌間を採用したことは、その後の高速、重量輸送に対応すべき車両の設計面で大きなハンディを負うことになった。のちに、何度が標準軌への改軌論議が出され、車両側でも動力車を除いた客車、貨車、電車の付随車などには標準軌用の長い車軸を使用しておき、改軌時に速やかに対応でさるようにしていたが、ついに実現にはいたらなかった。

輪送量の増大にともない狭軌鉄道のハンディを少しでも緩和するため、車体を欧米並みに大形化したり、機関車の動輪直径も大きくするなどの努力が重ねられたが、いずれの場合も重心が上り、軌間が狭い分だけ安定性が悪くなるのをいかに克服する方が設計上の大きな課題であった。新橋=横浜間の開業以来、約30年間は各地で民営鉄道が建設され、競って車両の輸入・改良が行なわれ、路面電車なども輸入されたが、1906年国策により、主要路線の全国統一運営のメリットを発揮するため私鉄の買収が行なわれ、以後車両、施設とも標準化が進められた。さらに技術力の向上により、1910年代には機関車も本格的な国産化が可能となり、独特の日本形車両が設計製作されていくようになった。輸送力の向上と安全確保のため、1925年には従来からのねじ式連結器を、短期間に自動連結器に一斉に取り替えた。また、客車・電車を木製から鋼製とする改良が行なわれた。
鉄道車両技術は日本の重工業技術の発展にも大きな役割を果たしてきた。1927年には初の地下鉄車両がつくられ、1930年代には高速化への研究開発が活発となり、超特急列車の運転開始、流線形車両の開発、機関車の出力増強などが行なわれてきた。リベット組み立てから全溶接へ、大形の鋳鋼製部品の鋳造などへと技術が進展したが、戦線の拡大とともに極端な物資欠乏に陥り、戦時設計を余儀なくされ、代用材使用の車両が細々と製作された。
戦後の復興がすすみ、1950年代に入ると、交流電化や高速化に対応する車両が設計された。同年代後半になると急増する都市部の通勤・通学輸送に応じるため、高加速・高減速性能をもつ電車が必要とされるようになり、国鉄、私鉄ともに、つぎつぎと高性能の電車を登場させた。電車による長距離の運転を成功させた国鉄では、電車・気動車を主体とする、世界でも類例のない動力分散優先の車両体系を確立した。
石油・石炭の大半を輸入に頼っている日本のエネルギー資源の実情にそって、鉄道車両も当然、エネルギー効率の高いものが求められ、より経済性の高い車両への転換が積極的に進められた。蒸気機関車を廃止し、電化・ディーゼル化を計る長期の動力近代化計画を、1975年に完了させ、創業以来100年間、日本の鉄道を牽引してきた蒸気機関車の歴史に終止符が打たれた。高度成長にともない、輸送需要は質量ともに多様化、増大の一途をたどり、さまざまの用途に適合した車両が開発された。ステンレスやアルミニウムなどの新しい材料を使用して車両の軽量化も進んだ。
この時期にみられる車両技術の進歩では電気車両を効率よく制御し、性能の向上とエネルギーの節約に寄与したさまざまの省エネルギーシステムがあり、これらは、電気車両の長所をいかんなく発揮させたものである。
一方、東海道新幹線の具体化にともない長年の技術の蓄積に加え、新たな研究開発の成果として、1964年標準軌による国鉄初の高速電気車両である新幹線電車が誕生した。標準軌の電車は以前から一部の私鉄において使用されていたが、新幹線車両はあらゆる面で日本の鉄道車両の枠を破った画期的な車両であり、日本の鉄道車両技術の水準の高さを内外に示した。1982年には全国新幹線網の一環として東北・上越新幹線が開業し、現在時速240km/hの営業運転が行なわれているが、今後一層の速度向上が検討されている。また、在来線においてもよりいっそうの高速化をめざす車両の開発が着々とつづけられている。そして、近年ではコンピュータシミュレーションやエレクトロニクスを応用した設計が行なわれるようになっている。
「筑摩書房 ビジュアル版 日本の技術100年 造船 鉄道」より抜粋